前でも後ろでもなく、隣を歩く
- 沢雄司
- 4月25日
- 読了時間: 3分
こんにちは。今日は素敵な言葉を入り口にして、「心の距離感」について一緒に考えてみたいと思います。

私の前を歩くな、私が従うとは限らない。
私の後ろを歩くな、私が導くとは限らない。
私とともに歩け、私たちはひとつなのだから
とても美しい言葉ですね。
ネイティブ・アメリカンスー族の格言と紹介されることもあります。しかし、実際にはこのフレーズは1970年代にアメリカで初めて世に出ました。現代の創作であり、多くの人が理想的な人間関係を表現するために引用してきました。

この言葉は確かに理想を表しています。でも、私たちが生きる現実の世界ではどうでしょうか。実は、私たちカウンセラーも、常にクライアントと「隣り合って」歩くことが理想ではあります。しかし、時にはクライアントが道に迷ったときに「こちらですよ」と前を歩く必要があります。カウンセラーがクライアントを教育・指導する場面もあるのです。また、クライアントの心の深い部分に入るときには、私たちが後ろからそっとついて行く場面もあります。クライアントの心をカウンセラーが理解しきれず、オロオロとついて行くしかない場面もあります。理解できている、寄り添っているつもりが、ズレている場合も多くあります。
つまり、「常に隣り合って歩く」というのは実際には難しいものです。私たちはそれぞれが別の人間であり、考え方や感じ方に微妙な違いがあります。その「ずれ」こそが、私たちが人間であることの証明でもあります。

ところが、私たちは時として、この美しい理想の言葉にとらわれてしまいます。「カウンセラーには全部が理解してもらえるはず」「本当に理解しあえるはず」と思い込んでしまうのです。しかし、完璧に一つになるという理想の世界は実は幻想です。最初からそこに住んでいるのではなく、お互いが努力し合う中で、はじめて心が通じ合う本当の瞬間が、たまーにあるのです。
では、どうすればその「心が通じ合う瞬間」を感じることができるのでしょうか。 大切なのは、相手との距離を丁寧に感じながら、少しずつお互いを理解しようと努めることです。前を歩いたり、後ろを歩いたり、時には横並びになったり、そうやって距離を調整しながら、自然なペースで歩いていく。その積み重ねが「共に歩む」ということなのです。

ときに心は揺れ動きます。とても近づきたいけど、近づきすぎると息苦しくなる。かといって離れすぎると寂しくなる。その心の揺れがあるからこそ、「ほどよい距離」というものを探す意味があるのです。
カウンセリングの場でも、日常の人間関係でも、同じことが言えます。完璧にわかりあえる関係を求めるよりも、むしろ「理解しようと努力し合える関係」の方がずっと豊かなのです。その中で、ふとした瞬間に心がふれあい、稀に本当の意味で「ひとつだ」と感じることができるのです。

私たちは、みな不完全です。だからこそ、お互いに理解しようとする努力に価値があります。その労力の中に優しさを感じられるものです。
あなたも、もし「完全な理解」や「完璧な距離感」を追い求めすぎて苦しくなってしまうことがあったら、少し肩の力を抜いてみてください。完全一致してなくとも、「私の隣にいようとしてくれる誰か」の存在に気付くことができたとき、それだけで心は優しい温かさに包まれるでしょう。いつか、ふっと気が付いたら、「ちょうどいい距離」で隣を歩いている人がいる――そんな瞬間が訪れますように。

Komentar