臥龍庵にて、学習院大学の坐禅合宿を行った。私は改めて「修行、心と向き合うこと」について考えさせられた。
合宿では、坐禅を組むことはもちろんだが、それ以上に「共に生活する」ということが重要な要素となっていた。皆で食事を作り、共に食べ、風呂に入り、寝る。そして朝が来れば坐禅をし、掃除をし、解散する。素朴で単純な生活だ。しかし、この単純な営みが、修行だとも言える。

「この2日間を振り返ってより心洗われた瞬間は意外にも苦痛を伴う修行の場面でした。1時間の坐禅に耐えたからこそ、朝霧が心地よかった。」
ある学生の言葉が印象的だった。
確かに、寒い中じっと坐る時間は大変だ。しかし、そこを通過したからこそ、霧の冷たさが心地よく感じられる。普段なら寒い朝は、辛いとしか思わないものだ。しかし辛い状況も主体的に今の瞬間に関わることで、心が澄んでいく感覚を感じることができる。これは、日常の喧騒の中ではなかなか味わいにくいだろう。
また、別の学生は
「どのような環境でも自分の呼吸と心を合わせることが、いかに難しいかを感じました」
坐禅は、ただ坐ることではない。自分の呼吸に意識を向け、心を整える作業である。厳格な空気の中で緊張し、寒さに身を縮めながら、それでも「自分を整える」ことを試みる。この試み自体が修行なのだ。うまくできるかどうかが問題なのではない。自分なりに試みることが修行だろう。
この坐禅合宿を通じて、私が改めて感じたのは、修行とは「意識的な自我を離れる」訓練であるということだ。普段、私たちは一人で自由に生活している。自分の時間を好きに使い、好きなことをする。しかし、共同生活ではそうはいかない。食事の準備も、掃除も、すべてが共同作業であり、そこには自分の思い通りにならないことが多くある。この「思い通りにならない」という体験こそが、自分の小さな自我を超えていく契機になるのではないだろうか。

これは、カウンセリングにおいても同じことが言える。
多くの人が「悩みを解決したい」と思ってカウンセリングを訪れる。しかし、悩みとはそもそも自分の思い通りにはならないものだ。その「思い通りにならなさ」と向き合うことが、自己変容への第一歩となる。悩みをなくすのではなく、悩みを通じて自分が変わっていくこと。それは、修行において「自分の思い通りにならない共同生活をする」ことと、どこか通じるものがある。
合宿の終わりの感想では
「本当に参加してよかった。日常生活とは違う体験をし、これからの毎日が彩り豊かになる気がする」という声もあった。
坐禅も、修行も、そしてカウンセリングも、「今この瞬間」に向き合いながら、生き方を見つめる機会なのかもしれない。そして、その積み重ねが、人を変えていくのだろう。
この坐禅合宿が、参加した学生たちのこれからの日々に、静かな波紋を広げていくことを願う。
Comments