「死にたい」
この言葉は、簡単には口にできない。心の奥深くに沈んでいて、重たい石のように動かせずにいる。それでも、カウンセリングをしていると、多くの方からこの言葉を聞く。死にたい気持ち。それは無くすべきものなのか。そう問いかけるとき、私はいつも立ち止まる。

人が「死にたい」と思うのは、ただ消え去りたいからではない。むしろ、死にたいほどに何かを強く訴えたいのだ。自分がここにいること、苦しみを感じていること、そのすべてを押し殺したくないのだ。追い詰められ、身動きの取れない状況の中で、それでも最後に残された主体性の砦として、「死にたい」という言葉が生まれる。だからこそ、その言葉をむやみに否定してはいけない。と、思う。
「そんなこと言ってはいけない」「考えてはいけない」と押し込めてしまうと、人はますます追い詰められる。誰にも言えない、誰にもわかってもらえない。そんな孤独が、さらに死にたい気持ちを強くしてしまう。では、どうすればいいのか。
私は、死にたい気持ちにも居場所を与えることが必要だと思う。
カウンセリングの場は、心の内を語るためにある。そこでは、どんな言葉も否定されることはない。「死にたい」という気持ちが口をついて出てくるとき、それは決して悪いことではなく、その人が自分の心と向き合い始めた証でもある。それは、自らの苦しみを誰かに伝えようとする、一つの主体性の発露なのだ。

死にたい気持ちが語られることで、その気持ちは少しずつ変化していく。誰かが耳を傾けることで、死にたい気持ちの奥底にある本当の思いが見えてくる。もしかすると、それは「生きたい」という願いなのかもしれない。「誰かに気づいてほしい」「つながりを感じたい」という渇望なのかもしれない。
だからこそ、私は死にたい気持ちを無理に消そうとはしない。むしろ、その気持ちがどこへ向かおうとしているのかを、一緒に見つめる。暗がりから出口を求めている主体性があるならば、それをどう芽吹かせるかを考える。
自殺を実行するのではなく、かといって死にたい気持ちを押し殺すのでもない。その間にある道がある。その道は、一人では見つけられないかもしれない。しかし、誰かとともに歩くことで、少しずつ光が差してくることもある。
カウンセリングは、死にたい気持ちに居場所を与え、一緒に歩く道を探す営みでもある。
もし、あなたが今、死にたいほどの気持ちを抱えているのならば、一人で抱え込まないでほしい。話せる場所がある。耳を傾ける人がいる。その気持ちに居場所を与えることで、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。しかし、試す価値はある。

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