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ストーカー加害者のカウンセリング義務化を読んで

10月25日
読了時間: 5分

連れてこられた人は、どこから自分の心に向き合い始めるのか


先日、ストーカー対策のニュースを読みました。(毎日新聞 2026/10/19) 警察庁が、加害者にGPS機器をつけてもらう仕組みと、治療やカウンセリングの受診を義務にする仕組みについて、有識者会議を立ち上げた、という報道です。


最初に浮かんだのは、「義務で受けても、意味があるのかな」という疑問です。でも次の瞬間には、「いや、今は受診する人が1割にも満たないと書いてあった。任意のままだと、ほとんどの人には届かないのかもしれない」とも思っていました。


まず、被害に遭う方の安全のこと被害に遭う方の安全は、何よりも優先されるべきです。


GPSの是非やプライバシーとの兼ね合いは、私には判断しきれない大きな議論です。ただ、「加害者が変わるのを待つ」ことで被害者を守る、というわけにはいかない。そこだけははっきり言えると思っています。


「無料なら」で始まった人の話



少し前の報道で、印象に残った記事があります。つきまといや盗撮で有罪になった男性が、警察に勧められて、「無料なら」とカウンセリングを受け始めた、という話です。


動機は、立派とは言えません。ところが面接の中で、心理士に「毎日後をつけられた女性は、どんな気持ちだったと思いますか」と聞かれて、男性は、それまで被害者の気持ちを一度も考えたことがなかったと気づくんです。「暇な時間が引き金かもしれませんね」と言われてからは、生活も変えていきました。


読みながら、「導入がなんであれ、動き出す人はいるんだな」と思いました。義務化に期待する人たちが見ているのは、きっとこの動きなんでしょう。



面接室で、私が見てきたこと

私の面接室にも、「自分から来ました」とは言えない形で来られる方がいます。


「家族に言われて来ました」と、最初におっしゃる方。「周りが行けって言うから、来てるだけで」と。

ところが、何回目かの面接で、その方がふっと、自分の言葉で話し始めることがあります。

何がつらいのか。何がいやだったのか。周りの人がどう言っているかではなく、自分はどう感じているのか。少しずつ、自分の言葉で話し始めます。

そんなとき、私は、カウンセラーとして仕事をしている実感が一番強くなります。

同時に、その人の勇気に、心を動かされます。

自分の心に向き合うことは、決して簡単なことではありません。ましてや、それを誰かの前で言葉にするのは、勇気のいることです。

目の前の人が、今、自分の心に触れようとしている。その姿に、私はいつも感動するのです。











「受ける」ことと「向き合う」ことは、同じだろうか

こうして考えていくと、カウンセリングを「受ける」ことと、自分の心に「向き合う」ことは、同じじゃない。

自分から申し込んだ方でも、「この症状を何とかしたい」「前の自分に戻りたい」が中心で、自分の心そのものを知りたいわけではない、ということがあります。逆に、しぶしぶ来た方が、途中から思いがけず、自分の心に興味を持ちはじめることもある。自分の心と取り組みだすことがある。


来ることが自発的かどうかと、心の作業に主体的に取り組めているかどうかは、別のことなんだと思います。しかもその主体性は、最初から決まっているわけではなく、面接を重ねるなかで育つこともある。


そう考えると、「義務だから意味がない」とも「義務でも始まればいい」とも、簡単には言えなくなってしまいます。


それでも、義務化でできるのは「入口」まで


ただ、同時にこうも思います。


制度が義務にできるのは、受診するという行動までです。カウンセラーの前に座ることはできても、その人の心の中で起きることまでは、義務にできません。


たとえば、面接室で「自分は悪いことをしていない。命令されたから来ただけです」と話す人がいたとします。それがその人の本当の今の気持ちなら、それが今の気持ちです。反省したふりをしてもらっても、心に向き合ったことにはなりません。


かといって、その人の気持ちを理解しようとすることは、加害行為を認めることではありません。相手の意思を踏みにじったという事実は、本人の気持ちとは関係なく、確かにある。


この二つを同時に持っておくのは、正直、なかなか難しい仕事です。


もう一つ、素朴な疑問も残っています。受診が義務になったら、カウンセラーは、目の前の人を支える人であると同時に、警察や国への報告者にもなってしまうのだろうか。守秘や報告のルール次第では、人は本当のことを話せなくなるんじゃないか。これは、私にもまだ分かりません。制度の作り方次第なんだと思います。


それから、記事には、こうした治療を専門にできる心理職はまだ多くない、ともありました。受け皿が追いつかないまま義務化されたら、形だけの受診になってしまわないか、という心配もあります。


「会いたい」と「会ってはいけない」のあいだ

ニュースの話から少し離れて、日々の面接のことに戻ります。


ストーカーの話に限らず、面接室には、受け入れがたい現実と、手放せない気持ちを、両方抱えた方が来られます。


たとえば、振られてしまって「相手はもう、自分とは関わりたくないと思っている」という現実。そして、「それでも会いたい、忘れられない」という気持ち。


どちらかをなかったことにするんじゃなくて、両方をそのまま見てみる。これは本当にしんどい作業です。


「会いたい」と認めることは、「会いに行っていい」ということではありません。逆に、「会ってはいけない」という現実を認めることは、「会いたい」気持ちを消すことでもない。気持ちは否定しない。でも、その気持ちのとおりに動くとは限らない。


そこに、ほんの小さな自由みたいなものが生まれる気がしています。うまく言えないんですけど。

答えは出ません


じゃあ、外から面接室に連れてこられた人は、いつ、どうやって、自分の心に向き合い始めるのか。


正直、答えは出ていません。私にできるのは、その瞬間が起こるかもしれない「場」を、なるべく壊さずに保っておくことくらいなのかな、と今は思っています。もちろん、それだけでは足りない場面もあります。被害者の安全を守る仕組みは、別に、しっかり必要です。でも、場をつくる人も必要だと思うのです。


義務化の議論は、これから進んでいくんだと思います。それを見守りながら、私はまた面接室で、目の前の人が話し出す瞬間を待ちながら、考え続けたいと思います。


 
 
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