小石とGSVで感じたこと

浜辺で拾った小石が、なんとなく気に入って、そのまま持って帰ることにした。 この石を拾った日の少し前、私はGSVに参加していた。
GSVというのは、グループ・スーパービジョンのことだ。
今回参加した勉強会は、全国から参加希望があり、少人数で行われるため抽選もある。決して安くはない参加費を払って、数年にわたる一つのケースを、2時間ほどかけて丁寧に検討する。
ありがたいことに、私は今回参加することができた。こういう場なので、参加するこちらもかなり気合が入っている。せっかくの機会だから、できるだけ多くのことを学びたい。ケースについても自分なりに考えながら聞く。

ところが、そこで感じたのは、こちらの熱意にまったく負けない講師の先生の熱意だった。
というより、熱意という言葉もちょっと違う。もっと静かだった。
先生は、たくさん話すわけではない。自分の考えや信念は明らかにあるのだけれど、それを前面に押し出さない。問われれば必要なことを答える。でも、相手が自分で考える余地をかなり残している。
一方で、ケースについては本当によく見ている。
クライアントが言った一言。 そのときの状況。
担当カウンセラーが何を考え、どう関わってきたのか。
そういう細かいところを、ずっと丁寧に追っている。
担当しているカウンセラーへの敬意も感じる。
数年間、そのケースと関わってきた人の努力や迷いを、簡単に否定しない。
でも、だからといって何でも肯定するわけでもない。
見立てとして大切なところや、対応として考えたほうがいいところは、きちんと伝える。
大切なことは、言葉を変えながら何度か繰り返していた。
その場にいると、そこまで考えるために先生が使っている時間や労力が、なんとなく伝わってくる。でも、それを先生自身はほとんど表に出さない。
「私はこれだけこのケースについて考えました」という感じがない。
それが、とても印象に残った。

カウンセリングの世界では、「クライアントを愛する」という言い方はしない。
コミットするとか、ラポールを作るとか、治療関係を大切にするとか、そういう言い方をする。
それはもちろん専門用語だからなのだけれど、今回、その言葉の選び方にも少し意味があるような気がした。
「私はこの人を大切に思っている」
そう言うことは簡単だ。でも、人を援助する仕事では、自分の「大切に思っている」という気持ちに酔ってしまうこともあるのだと思う。
こんなに心配している。
こんなに考えている。
こんなにしてあげたい。
気がつくと、相手ではなく、相手を思っている自分の気持ちが中心になってしまう。

だから臨床では、愛情という言葉を使わず、
よく聴くこと。
よく見ること。
考えること。
守秘義務を守ること。
必要なことを伝えること。
距離感を大事にすること。
そういう形に変えていくのかもしれない。
相手を大切にするということは、近づくことだけではない。
こちらが大切に思っているからといって、相手の人生の中へどんどん入っていっていいわけではない。その人が自分で考え、自分で動けるだけの距離を残す。
相手が自由でいられる場所を空けておく。
それもまた、人を大切にすることなのだと思う。
そんなことを考えていた。

ちなみに先生は、GSVの途中で二度ほど欠伸をされた。
そこも心に残っている。
毎日の仕事で、きっと疲れているのだろう。
疲れない特別な人が、余裕のあるところからケースを考えているわけではない。
疲れる身体を持った一人の人が、それでも一つのケースのためにこれだけ考えている。
それが、なんだかとてもよかった。
私はその姿にも、愛情のようなものを感じた。
もちろん先生は「愛」などという言葉は使わない。
私は、自分はどうだろうと思った。
ケースについて、これくらい丁寧に考えているだろうか。
人を大切にできているだろうか。
少し反省もしたし、こうありたいなとも思った。

そのあと海を歩いていて、あの小さな石を拾った。
石はこちらに何も求めないし、何も返してこない。
私はその石を少し気に入った。
浜辺にはたくさんの石があって、たまたま出会って
家に持って帰って、どこかに置いておこうと思った。
私なりの居場所を石に与える。
それだけで、少し満たされるものがある。
何かを大切に思うこと。
近づきすぎず、それでも気にかけること。
そんなことを考えながら、小さな緑色の石をポケットに入れた。




